世界の大思想12 ヘーゲル

キーフレーズ

自己意識 意識 自己 自分 存在 自身 自ら 現実 精神 自分自身 純粋 対象 概念 実在 本質 一般 一般的 契機 区別 規定 内容 関係 自体的 個人 一般者 絶対的 実体 対立 自体 在る 行為 場合 否定 法則 統一 個別 意味 真理 言い 形式 形態 つまり 運動 現われる 確信 他方 一つ 直接的 考え 世界 そのもの 言っ 必然性 本質的 単純 廃棄 現われ 思惟 現実的 行動 表象 目的 絶対 側面 理性 抽象 有機体 人倫 道徳性 同時に 自然 他者 同じ 感覚 二つ 義務 両者 思想 結果 全体 自由 一般性 直接 国家権力 自然的 実現 精神的 全く 信仰 すべて 自立 透見 経験 性質

目次

みは花によって否定されると言ってもよい。同じように、果している虚構、問題そのものを求めてまじめに努力している という外観と、その努力を現におしんでいることとの二つを 実によって花は植物の偽なる定在と宣告され、植物の真とし 結びつける虚構に属するというべきである。というのは、事 て果実が花の代りとなる。これらの形式は互いに異なってい るだけでなく、互いに相容れないものとして斥け合う。しか柄は目的のなかでくみ尽されるものではなく、その実現のな し、これらの形式は、流動的な性質をもっているため、同時 かでくみつくされるものだからであり、また結果は、現実の に有機的統一の契機となり、この統一にあっては形式は互い 全体ではなく、全体の生成と一緒になるとき、現実の全体で に対抗しないばかりか、一方は他方と同じように必然的でああるからである。目的はそれだけでは生命のない一般者であ る。それは、意向がただの興奮にすぎず、いまだ現実を欠い る。この等しい必然があって初めて、全体という生命が成り 立つのである。けれども或る哲学体系に自分の体系が矛盾すているのと同じである。そしてむき出しの結果は、意向を捨 る場合、一方では今言った仕方で矛盾を理解しないのが普通て去った屍であゑ差異はむしろ事柄の限界であり、事柄が である。また他方では捕捉的意識は、普通この矛盾を一面的終るところに在る。言いかえると差異は事柄ではないもので な姿から解放してやり、それを自由にしておくことを心得てある。それゆえ、いま言ったように目的や結果で骨を折るの は、或る哲学者と他の哲学者の差異や評価に骨を折るのと同 いないし、また争い対抗し合うように見える形態のなかに、 じで、多分外見上そう見えるよりはやさしい仕事なのであ 互いに必然的な契機があると認めることを、心得ていないの る。なぜなら、そういうふるまいは事柄に関わりあう代り が普通である。 いつも事柄を超えてその外に出ているからである。そう こういう心得ちがいの説明を求め、この説明を満足になし新 いう知は、事柄に深く立ち入り、そのなかで自分を忘れる代 とげさえすれば、それだけで、本質的なことをやっているの り , に、 いつでも何か別のものを追い求めているからであり、 だと思われやすい。つまり、哲学的著作の内面は、その目的 と帰結以外のどこにより多く言い表わされ得るのか、また一」事柄のもとに止まり、それに自己を傾けるよりも、むしろ自 の目的と結果は、同じ分野で同時代の他の人々がもたらすも分自身のもとに止まっているからである。一番やさしいの のとのちがいによる以上にはっきりと、認められることがあは、実質をもち充実したものを評価することであり、比較的 むずかしいのは、それを把握することであるが、一番むすか ろうか、というわけである。しかし、そういうふるまいを認 しいのは、この両方を一緒にすること、すなわち、実質をも 識の初まりより以上のものと見なし、現実の認識と見なすべ きだというならば、それは、実際には、事柄そのものを回避ち充実したものを叙述することである。

たとえは解剖学とは何であるかという一般的な考えにあって は、つまり、生命関係をもたないものと見られた身体各部分 についての知見の場合には、事柄そのもの即ち解剖学の内容 をまだもっていないことが、そのうえ、特殊を手にいれるよ うに努力しなければならないことが、確信されている。さら加 に、学問と名のる権利ももたないような、こういう知見のよ せ集めにあっては、目的やそれに似た一般などについてのお しゃべりは、その内容そのものについて、つまり、これこれ くつかの動 著者が自分の著作において企てた目的とか、い の神経、筋肉などについて語るときの、物語的な無思想な方 機とか、同じ対象についての前時代や同時代の論作に対して とると考える関係とかについて、序文で前も「て説明するの法と少しもちがわないのが普通である。ところが、哲学の場 合にはそういう方法を使うにしても、その方法では哲学自身 が習慣になっている。だが、この説明は、哲学的著作の場合 に冫余計であるだけでなく、事柄の性質から言「て適当では真理を把握することができないと指摘することになるであろ うから、そこにちがいが起ってくることになろう。 なく、目的に反するようにさえ思われる。というのは、序文 さらに、或る哲学的著作が、同じ対象についての、他のちが で哲学についてどのようにまた何が当然語らるべきであると った研究に対してもっていると思われる関係を規定するとき しても、たとえば、傾向や立場、一般的な内容や帰結などに にも、的はずれな関心が引きいれられて、真理の認識の根本 ついて物語的にのべること、また真理についてのあれこれの となっているものが、ほかされてしまうことがある。想念 ( 思 主張や断言を継ぎ合せることなどが、当然語らるべきである いこみ ) というものは、真と偽の対立を固定させるものであ としても、こういうことは、哲学的真理がのべられるはすの 方法とは考えられ得ないからである。また、本質的には哲学る。が、そうなればなるほど想念 ( 思いこみ ) は現存の哲学体 論は、特殊を包む普遍という場のなかに在るものである。その系に対し賛成か反対かの何れかを期待し、この体系について ため、哲学の場合には他の諸々の学問の場合よりも一層、事説明するときには、賛否の何れかだけを見るのが普通である。 序柄そのものは、目的もしくは最終の結果のなかに、しかも完想念 ( 思いこみ ) は諸々の哲学体系のちがいを、真理が前進する 全な本質となって表現されているが、これに比べると実現ときの展開とはみないで、このちがいのなかに矛盾だけをみ ている。つ、ほみは、花が咲くと消えてしまう。そこで、つ、ほ の過程は本質的でないように思われがちである。ところが 序論

凡例 一、原典にはラッソン編第三版を用い、ホフマイスター版、グロックナー版を参照、原典 を修正したが、いちいちことわらなかった。 ーの英訳第一一版、イボリットの仏訳、金子武蔵氏の邦訳を参照、教えられると ころがあった。 三、本文の脚につけた数字は原典の頁を表わす。 四、訳者注は ( ) の中で示しておいた。なお ( ) の中が本文と同一の組みになってい るものは原著者のもの、組みが小さくなっているものは訳者のものである。 五、訳注 ( ) 内の数字は原典の頁をさす。原著者の他の著作を ( ) 内に引用した場合 は、わかるようにしておいたが、ただ全集となっているのはグロックナー版をさし、 「論理学」イエーナ『論理学』となっているのはラッソン版、イエーナ『実質哲学」と なっているのはホフマイスター版をさす。 六、目次は、著者のものではなく、原典のラッソンのものによっているが、訳者の考えで 多少かえてある。なおこれについては解題を見られたい。 この目次は見出し程度のもの と考えてもらいたい。